東高円寺のボクシンングジム – GOPANDA GYM

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【ヤゴシコラム⑤】日本の名ボクサー列伝~畑山隆則~

2019.08.29

【ヤゴシコラム⑤】日本の名ボクサー列伝~畑山隆則~

さて、暑かった夏もようやく涼しくなってきた今日

この頃ですが皆さん如何お過ごしでしょうか。

私、ヤゴシは先日35度を超える猛暑の中での

フットサルで左足裏を負傷

(母子球がザックリめくれただけ)、

寝不足だった為に熱中症で倒れました。

やっぱり夏の運動は気を付けなければいけないですね。

ちなみに当GOPANDA GYM内は夏の間、

安定して26~28度を保っています。

文明の利器ってありがたいですねホント。

 

さて、久々となるコラムですがタイトルの通り、

「日本の名ボクサー」をご紹介しようと思います。

第1回目となる今回は「畑山隆則」です。

ガチンコファイトクラブを観たことがある方はよく御存じなのではないでしょうか。歯に衣を着せない知的なキャラクターはバラエティ受けも良く、

相棒の竹原慎二氏とプロボクサーを目指す為に集まった不良相手にお茶の間を賑わせていました。ちなみにガチンコファイトクラブはYOUTUBEで検索すると名(迷?)シーンが観れるのでおススメです。

 

それでは、ボクサー畑山隆則は一体どういう男でボクサーだったのか、一緒にひも解いて行きましょう。

 

1.経歴

2.ボクサー時代

3.引退後

4.ボクシング史に残る名勝負

5.カムバック

6.引退後~現在

 

1.経歴

1975年7月28日生まれで青森県青森市出身。

野球の名門、青森山田高校の野球部に推薦で入学するも先輩部員と馬が合わずにわずか1ヶ月で退部し、そのまま中退。ガソリンスタンドのアルバイトで貯めたお金を握りしめて単身プロボクサーとなる為に上京しました。

最初はボクシングの名門ヨネクラジムに入門しましたが(ガッツ石松がいたジム)大勢の練習生に埋もれてしまい、全然教えてもらえなかったそうです。畑山さんのポテンシャルを以てしても埋もれていたと思うとボクシングの世界は本当に厳しいですね。その後は京浜川崎ジムへ拠点を移し、そこで韓国出身の柳和龍トレーナーと運命的な出会いをします。

ある日、ジムの選手とスパーリングをやってみろと言われ、初めて14オンスのグローブとヘッドギアを着けてリングに上がった彼を見た柳トレーナーは驚きました。パンチを恐れずに相手の動きをよく見てカウンターを的確に狙っている、こいつは他とはモノが違う、と。

スパーリングの様に試合を想定した実戦練習では、慣れるまでどうしてもめちゃくちゃなパンチを打ってしまい、ケンカみたいになってしまいます。慣れるまでは中々ミット打ちやサンドバックを殴るようには戦えないものです。

彼のボクサーとしての潜在能力を一瞬で見抜いた柳トレーナーは畑山さんに

「俺と一緒にやれば世界チャンピオンにしてやる」

と言い、こうして名コンビが誕生したわけです。

 

2.ボクサー時代

プロテストを一発で合格した後、すぐにプロボクサーの登竜門である東日本新人王トーナメントにエントリーします。(西日本新人王、中日本新人王もあり、最終的には全日本新人王決定戦で新人ボクサーの覇者を決める)1993年6月17日にデビュー戦を初回KOで飾ると、そのまま破竹の勢いでトーナメントを勝ち抜き、全日本ジュニアライト級新人王(ジュニアライト級は現在スーパーフェザー級)となりMVPも獲得しました。

それからも順調に勝ち星を重ね、OPBF東洋太平洋王座を獲得します。その後は京浜川崎ジムの会長の不祥事が原因で横浜光ジムへ移籍するなどバタバタしたものの、無敗のまま1997年10月5日、両国国技館で崔龍洙(韓国)の持つWBA世界ジュニアライト級王座に稜線します。

結果は惜しくもジャッジ三者三様のドローとなり、世界初挑戦は失敗に終わりました。

(ドローだとチャンピオンの防衛成功になる)

 

翌年、再び両国国技館で行われた再起戦の相手は無敗の日本ジュニアライト級チャンピオン、コウジ有沢でした。この試合は互いが無敗であったことからメディア各局が「史上最大の日本タイトルマッチ」と打ちだし、フジテレビが生中継しました。ファイトマネーも双方500万円、勝者には更に500万円と車が用意されました。

日本タイトルマッチとしては破格です、、笑

結果としては9回TKOで勝利し、相当嬉しかったのかリング上で両手を突き上げて雄叫びを上げていました。あの姿は観てるこっちまで熱くなりましたね。

この試合で再び勢いに乗り、1998年9月5日、崔龍洙に再び挑戦し、(116-113、116-113、114-114)の2-0で見事!

念願の世界チャンピオンとなることが出来たのです。

しかし、翌年の初防衛戦ではドロー防衛、2度目の防衛戦では5回TKO負けを喫して同年の7月に現役を引退します。

 

3.引退後

引退後はバラエティ番組やスポーツキャスターとしてテレビ出演をしながら役者活動まで行っていましたが、何だか物足りなさを日々感じていたそうです。

タレント活動の合間にジムで後輩の指導をする中で

「俺はまだ燃え尽きていない、まだまだやれるんじゃないか、一度しか無い人生やるしかない」

と思い立ち、引退を撤回します。

成功者に共通することですが、考えをすぐに実行しています。

頭の中であれこれとシミュレーションをすることもある程度は大事ですが、考え過ぎて実行しないことはチャンスを自分から捨てている様なものです。

頭でっかちの羊になるのではなく野心的に挑戦する狼になれ

そう彼も著書の中で綴っていました。

 

そして復帰戦で階級を一つ上げて、ヒルベルト・セラノ(ベネズエラ)が持つWBA世界ライト級王座に挑戦し、

見事2階級制覇に成功するのです。誰もが不利だと予想した試合でしたが蓋を開けてみれば5回もダウンを奪った内容で圧勝、やはり天才は言うこともやることも違いましたね。

 

そして、試合後のリング上で彼はこう言い放ったのです。

 

「次は坂本選手とやります」

 

こうして今なお語り継がれる日本ボクシング史に残る名勝負が生まれるわけです。

 

次回に続く。

 

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